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岡本太郎と縄文時代がMY TEAR

先週の土曜日に塩竈市でやっている岡本太郎展に行ってきた。
彼の作品を生で見るというのは初めてだった。
 
 
リボンの子って作品や坐ることを拒否する椅子、明日の神話などの作品が印象に残った。
 
 
その展示会では作品よりも「1951年、岡本太郎東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受けた」とかいう解説文とともに彼が撮った土器の写真の展示を見てものすごい衝撃を受けた。
 
岡本太郎は縄文火焔土器を見て美術芸術品として衝撃を受けたのだそうだ。
 
以下当時の思いの抜粋
 
縄文土器にふれて、わたしの血の中に 力がふき起るのを覚えた。濶然と新しい伝 統への視野がひらけ、我国の土壌の中にも 掘り下げるべき文化の層が深みにひそんで いることを知ったのである。民族に対して のみではない。人間性への根源的な感動で あり、信頼感であった」。
 
抜粋終わり
 
 
当時、縄文土器なんていうのは原始人がウホウホ言いながら作った工芸品、もしくは単なる歴史資料としてしか見られていなかったそうで、それに美術芸術品としての価値を再発見した彼の視点は日本の美術史を書き換えるほどのものだったらしい。
※調べてみたら当時、日本美術史としてみなされていたのは古墳時代(3世紀頃)からだったぽいので縄文時代(紀元前14000年頃)まで時代を遡らせたっぽいね。すげー偉業じゃねぇか。笑う。
 
 
簡単に言えば、岡本太郎ってのは日本美術史の中での特異点であって唯一無二の人なんだってこと。
 
 
とまぁここまで「岡本太郎はすごい人なんだよ」って話をしてきたわけだけど正直、美術史なんてどうでもいいんだわ。どんだけ岡本太郎が美術史的にものすごい人だろうがどうでもいい。俺が衝撃を受けたのはもっと違うところにある。その話をしたくてこの日記を書いている。
 
俺もだし、恐らくみんなもそうだと思うんだけど「過去の人の生活水準」だとか「過去の人の文化」や「過去の人の技術力」みたいなものを無意識的に見下しがちなものだと思う。
 
オーパーツとかロストテクノロジー的なものもそう言った「無意識下の見下し」があるからこそ謎めいたものだとみなされているんだろうな。
 
なにいってんのかよくわからんって人は「今の食事」と「昔の食事」について考えてみてほしい。今の食事は品質改良などが加えられた素材の味だっていいし、保存技術の発展によって鮮度だっていい。調理方法だっていろんな国の料理が伝わってきていて美味しい料理が食べられる。それに比べたら昔の食事って微妙すぎるわって思ったことがあるだろう。特に歴史の授業とかにあるだろう。
 
ほかにも娯楽面だったり移動手段だったり、今昔を比べると間違いなく大体のものは今のほうが良いんだ。
 
俺らは学べば学ぶほど過去に関する無意識下での見下しをしてしまうもんだと思う。
 
そういう色眼鏡をかけてしまうのだと思う。
 
やっぱり昔より今のほうが便利になっていたりするのは事実で、そうなってしまうのは誰が悪いとか教育が悪いとかではなくて、至極当然のことなんだと思う。
 
でも、無意識下の見下しを岡本太郎は持っていなかった。
 
「良いものは良い」
 
はっきりそう言える人なのだと思うし、平等に物事を判断出来る人なんだろう。そして物の本質をしっかり見極められる人なんだろう。少なくとも美術芸術に関しては。
 
今日、仕事で行った福島の帰り道に車の運転をしていたら今まで書いたような考えに至った瞬間、目からウロコが落ちたよね。つーか目から涙が落ちた。なんでなのかはよくわからない。多分だけど、そういった無意識下の見下しをしていた自分の人間的小ささと岡本太郎の(少なくとも美術芸術に関しては)人間的大きさの違いにかなしくなったんだろうね。
 
話があまりまとまってないような気がするけど、とにかくなんかスケールの大きいものの一端に触れたようなきがするっていう話です。